2004年09月21日

「SMは信頼」?

前記事『これは「SM」の話ではありません。』には
たくさんのコメント/TB ありがとうございました。

今夜ようやく、一通りのコメントをお返し出来たと思うので、
その間つらつらと考えていたことを、書き留めておこうと思います。


私が元記事で言いたかったのは、
「何でもかんでもSMに帰結させないで。」ということでした。

拙すぎる文章で、みなさまを混乱させてしまったのかもしれませんが、
私はあの記事で「誰が悪い」ということが言いたかったのではないのです。
(あえて仮に「悪い」とするなら、私は「どちらも」だと思っています。)

SMって何でしょう。
主従って何でしょう。

それはそれぞれの人の気持ちの中にだけ、答えがあるのではないですか。
 Sはこうあるべき。Mはこうあるべき。
そんな括りこそが、私は危険だと思うのです。


「私はこんなサディストです。」「私はこんなマゾヒストです。」
人によって、それは様々なのは当たり前。
どんなSさんでも、どんなMさんでも、別に構わないじゃないですか。

ただ誰かと繋がろうとするとき、
その相手が、自分と合うか合わないかだけが、大事なのではないですか。


「自分と合うか、合わないか。」
・・矛盾するようですが、
その部分こそがつまり、私は、すでにSM以前の話だと思うのです。

Sだ、Mだ、ではなくて、
ただ単に「人と人として」信頼し合い、繋がることが出来るかどうか。


Sだ、Mだと言いますが、私はそんなのはただの性的嗜好だと思っています。
誤解を恐れずに言えば、私は本来「SMは信頼」なんかじゃないと思っています。

「信頼」なんていうのは、それ以前の問題。「人」対「人」の問題です。

SとMとの関係なんて、ただの加虐性癖者と、被虐性癖者の交わりです。
お互いにそれで気持ちがイイから、くっついているだけ。
だから、怖いんです。歯止めが効かなくなって、暴走をしてしまったときが。

だからこそ、まず「人と人としての信頼」が必要不可欠なのではないですか。


今回、たくさんの方のコメントや記事を拝見して、やはり
「SMは信頼」という言葉を多く見かけました。

その言葉に、当たり前の嬉しさと、
同時に、言葉だけが一人歩きしていく不安を感じたのは、私だけでしょうか。
posted by sizuku at 04:37| Comment(13) | TrackBack(0) | パンドラの罪 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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