被爆者の方が対面し、対話しているのを見ました。
ある被爆者の男性が、
「あなた(個人)を責めるつもりはない。が、あの原爆の犠牲者に対しては、
"申し訳なかった"と謝って欲しい。」とぶつけました。
科学者は答えました。
「私は謝らない。謝るなら、まずあなただろう。
我々にはこんな言葉がある。・・"Remember, Pearl Harbor."」
吐き捨てるようにその言葉を口にしたときの、その科学者の表情を見た私は、
仮にそれが(私にとっては)到底理解し難い言い草であったとしても、
残念なことに、彼には彼の正義があったのだと、感じざるを得ませんでした。
被爆された方々の悲しみ、苦しみ、そして怒りは、
何年経っても何十年経っても、おそらく決して消え去ることはないでしょう。
過去を風化させない為に、彼らにはその声をもっともっと響かせて欲しい。
けれど今を生きる私たちは、ただ単にその声に同調し、
涙を流して立ち止まったままでもいけないのだと感じました。
直接被害を被ったわけではない私たち、
原爆どころか、戦争も知らない私たち、
そんな私たちこそが、被爆者の方々の心の痛みを少しでも思いやれると同時に、
単に「誰が悪かった」「何が悪かった」というだけではなく、
今現在の核の脅威を、他人事ではなく自分たちの問題として捉えられるなら、
今、私たちには、もっと冷静に、世界の未来の為に、
考えなければならないこと、取るべき姿勢があるのじゃないか。と、私は、
そんなふうに感じたのです。
「彼」の気持ちもわかりたい。
「彼」の気持ちもわかってあげたい。
人が、他人(ひと)の痛みを、完全に理解してあげることは不可能だとしても、
そう思って初めて、私はそこに、
今、私自身が考えなければならないことも見えてきたような気がします。
「そもそも人が人を傷つけたり、殺し合うことに、何の正義があるのだろう。」
「安らかに眠って下さい 過ちは 繰返しませぬから」
・・私も今、強く、その「主語」の一人であろうと思います。





「そもそも人が人を傷つけたり、殺し合うことに、何の正義があるのだろう。」
私もそう心から思います。
誰もが1人残らずこの戦争は正義の戦争だと
認められる戦争なんてあるわけがないのです。
正義の対極には悪がある。
悪を作り出すのも正義なのですから。
特定の誰かにではなく
人間として感じる痛みを共有することから
始めるということが大事なんだと思うのだけど
難しいですよね。。
過去に戻ってしまわないように
でも、過去を忘れてしまわないように
一人一人が最善を尽くすしかないのですよね。
私が広島の原爆資料館を訪れたのは9歳の夏でした。
その中に一歩足を踏み入れた途端、前に進めなくなって、
おそろしいものを直視してしまわないように
ぎゅっと母の腕にしがみついて歩いたことを覚えています。
それからずっと長い間。
人間の悪意がおそろしい兵器になって頭上に落ちてくる夢を見ては
飛び起きていました。
年老いた科学者の態度を見て思いました。
この人が苦しんでいないはずはないだろうと。
謝罪の言葉を口にできずとも、
自分の心の中の神には懺悔と祈りを捧げているのではないかと。
それを信じたいと思うのは
私の願望に過ぎないのかもしれないけれど。
人間はとても弱いし、赦しあうことは難しい。
しかし私も「ヒロシマの心」を忘れぬ一人でありたいと
思います。
jestineさん。
closedさん。
コメントありがとうございました。m(*..)m
>人間として感じる痛みを共有することから
>始めるということが大事なんだと思うのだけど
>難しいですよね。。
そうですよね。
人が純粋に、人を思う気持ちや、生命を思う気持ちに、
本来、人種や国境、宗教は関係ないと思うのです。
なのに現実の世の中を見渡してみれば、
相変わらず今も、愚かな諍いはなくなっていません。
いったいどうしてなんだろう。・・本当に難しい問題だと思います。
>年老いた科学者の態度を見て思いました。
>この人が苦しんでいないはずはないだろうと。
>謝罪の言葉を口にできずとも、
>自分の心の中の神には懺悔と祈りを捧げているのではないかと。
>それを信じたいと思うのは
>私の願望に過ぎないのかもしれないけれど。
確かにそれは願いのようなものかもしれない。
でも、私もそう信じたいです。
彼にだって、Pearl Harborや戦地で失くした友人たちを思う心がある。
それは、おそらく「視点の違い」というだけのことで、
彼が、私たちとまったく違う心を持っているということではないと思うのです。
――――――――――
昨夜、今夜と続けて、私はNHKの
「特集平和アーカイブス・語り伝えるヒロシマ・ナガサキ」を見ていました。
(3夜連続の特集番組で、9日が最終夜です。)
私はこれまで、比較的、意識的に、文献にあたったり、映像を見たり、
この問題にも触れてきたつもりでしたが、
それでもあらためて、自分が「知らなかったこと」の多さに気づき、
愕然としています。
今夜は、生き残った人たちの「生き残って申し訳ない」という自責の念に、
胸が苦しくなりました。
――――――――――
どうして? なぜ? どうしたら?
気持ちの中には疑問符ばかりが浮かびますが、
一人一人が考え続けることは、きっと無駄ではないと思います。
アプローチの仕方は、人それぞれだと思いますが、私は、
むしろ、そんな個々のアプローチが、
「人は守り合うもの」というところで結実すればいいのに、と思うのです。
コチラの記事で取り上げられていることについて
引用させていただきましたので
トラックバックいたしました。
もしもご不快なようでしたら
削除してくださいませ。
華純サマ、はじめまして。^^
TBと、そのご連絡コメント、ありがとうございました。
TB頂いた記事への、コメントはそちらに入れさせて頂きますね。^^
トラバに対してのコメントを頂きありがとうございました。貴ブログの存在を昨日、初めて知り、大変興味深く拝読させて頂きました。
毎年のこととは言え、戦争の惨禍を訴えるTV番組が、8月を過ぎると、ほとんど見られなくなってしまうことには首を傾げざるをえません。
そうした風潮の中で、貴ブログに込められた平和への願いは、とても貴重なメッセージであると思います。
下等遊民サマ、コメントありがとうございました。^^
>毎年のこととは言え、戦争の惨禍を訴えるTV番組が、8月を過ぎると、ほとんど見られなくなってしまうことには首を傾げざるをえません。
そうですね。仰る通り、私もいつもとても残念に思っています。
TV番組のプログラムとしては、やはり「季節モノ」といった感覚なのかもしれません。
ただ、もちろん「あの戦争」の記録や回想も意味のあることですが、
今なお、世界では様々な紛争が続いています。
そういった問題のレポートや、考察番組がとても少ない気がするのは何故なんだろう・・。
「過去」は、教訓として活かさなければならないと思います。
「どう活かすのか」が、私たちの課題ですね。
拙記事「靖国問題」のほうに頂いたコメントを拝読して、自分にとっては「猥雑」や「昭和的」という言葉がキーワードになっていることをあらためて実感させて頂きました。またsizukuさんも同じ感覚を共有されていることを知って、嬉しく思います。お互いに、育った環境も時代も異なるはずなのに、何か不思議ですね。こちらからも貴サイトのほうに、ちょくちょく遊びに行かせてもらいますので今後ともよろしく。